May 05, 2009

太陽電池パネルは、かなりお得

数年前に太陽電池パネルの営業が来て、住んでいるので付けてみることにしました。パネル代と工事費はかかりますが、我が家の光熱費で計算すると、7年ほど源が取れるという話でした。付けてみると確かに冬でも毎月の原油価格は半分以下で、夏ならば、太陽電池パネルに沸いたお湯だけで過ごすほどでした。結局、5ニョンゴナワヌンを離れて、少しのメンテナンスは必要ですが、今も活躍しています。
今注目されている発電方法、太陽光発電があります。太陽光発電は、太陽エネルギーを利用して発電をするシステムです。太陽光発電ですが、石油を使用して行う火力発電のように、将来資源が枯渇する心配が必要ありません。枯渇のおそれのない太陽エネルギーを用いて行う発電方式なので、今後、世界的に普及すると予想されています。
 大王製紙の井川意高前会長が連結子会社から巨額の現金を借り入れていた問題は、100億円を超える借入金の“行方”が大きな焦点となっている。マカオのカジノで20億円を浪費した以外にも株取引などに使ったとの指摘があるが、詳細は不明のまま。前会長は同社の特別調査委員会に反発し聴取を拒んでいるため、使途の解明は司直の手に委ねられることになりそうだ。

 ▼「ギャンブル好き」

 「個人的に使う。いくら用立てられるか」

 複数の関係者によると、前会長は昨年、連結子会社役員らに電話で直接融資を依頼した。使い道は明らかにしなかったという。役員は、前会長の部下や元部下たち。依頼を受けて、担保なしで次々と融資を実行していた形跡が浮かぶ。

 使途について前会長は明言を避けているが、マカオのカジノで少なくとも20億円を使っていたことが判明している。関係者によると、一部は株取引や外国為替証拠金取引に充てていたとみられる。

 前会長をよく知る関係者は「特にカジノなどギャンブルに目がなかった。マカオへの渡航は、ほとんどが単身。文字通りギャンブルに専念するためだった」と明かす。

 ▼チェック態勢不備

 前会長の借り入れをめぐっては大王製紙が9月、子会社7社から総額約84億円の貸し出しがあり、うち約55億円が返済されていなかったと発表。その後の調査委の調べによると、別の子会社を経由したケースなど貸出総額は判明分だけで106億円に上る。

 これまでの同社の調査では、貸し付けに際して、契約書の締結など必要な手続きが行われていないなど、社内のチェック態勢の甘さが問われるケースも見つかっている。

 貸し付けのうち23億5千万円については、今年6月末に同社が関東財務局に提出した平成22年度の有価証券報告書にも掲載されていた。いわば会社が巨額の融資を取締役会で“承認”していた格好で、前会長も周辺に「取締役は有価証券報告書で貸し付けを認識していたはずだ」と訴えている。

 関係者によると、経理部門や経理担当といった大王製紙本体の役員は、子会社の会計にほとんど関与しない制度になっていたという。

 企業統治に詳しい九州大学大学院の西山芳喜教授(会社法)は「不透明な巨額融資は当然、取締役会で問題視されるべきだ。融資をめぐり株主代表訴訟に発展すれば、当時の取締役の責任も問われる可能性は高い」と指摘している。

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【決断の日本史】(95)1012年1月16日 

 藤原道長(966〜1027年)といえば摂関政治の全盛期を築き、この世の栄耀栄華(えいようえいが)をすべて味わった人物として有名である。しかし、その道長にしても生涯において、悲しみに涙したことが何回かあった。

 寛弘5(1008)年、一条天皇の中宮となっていた道長の長女、彰子(しょうし)は敦成(あつひら)親王(のちの後一条天皇)を出産した。同8年には、次女の妍子(けんし)が三条天皇の女御として入内(じゅだい)した。将来、天皇の外戚となって権力をふるうことは間違いない状況となっていた。

 そんな道長に、突然の知らせがもたらされた。三男の顕信(あきのぶ)が何の連絡もないまま比叡山に登り、出家してしまったのである。19歳の若さだった。顕信は第2夫人の明子(めいし)の子供で、仏教にひかれる心優しい性格だったようだ。

 「出世にあくせくする貴族社会が顕信の性に合わなかったのではないでしょうか。宗教を信じる傾向は道長にもあり、衝撃を受けながらも俗世に引き戻すことはしなかったのです」

 評伝『藤原道長』(ミネルヴァ書房)を執筆した朧谷(おぼろや)寿・同志社女子大学名誉教授は言う。道長はその日の日記に「本意によるものだから、諭しても無駄だ」と書くしかなかった。

 それでも、心配でたまらない道長は3カ月後に比叡山に登っている。顕信に面会して僧衣などを贈り、4時間ほど語り合って山を下りた。最高権力者もそこでは、一人の気の弱い父親でしかなかった。

 顕信は体も丈夫でなかったのだろう、万寿(まんじゅ)4(1027)年5月、34歳の若さで亡くなってしまう。

 愛息に先立たれた道長の悲しみは、いかばかりだったろう。その心痛もあってか7カ月後の12月4日、今度は道長自身が自分の建立した法成寺(ほうじょうじ)で、阿弥陀仏にすがりながら62年の生涯を閉じたのだった。jetbulls.com(渡部裕明)

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